「作品」という言葉に関して、ネガティブなイメージの意見があります。曰く、人の金でデザイン優先のマスターベーションのような家を建てて作品と呼ぶなんて何様?、という意見です。
まあ、そもそも建物の数だけ設計があるわけで、それを設計していいのは建築士なわけで、建築家がおかしな格好の家を自己満足で建ててる、っていうのは都市伝説にすぎないです。
マスコミが面白半分で取り上げて持ち上げて、その反面で落として嘆息してみせる都市伝説などほんの一部の話です。
大勢の建築士は縁の下で設計・監理を黙々とやっているのです。
ちなみに、デザインすると言うのは機能やスタイリングを「考える」という意味です。スタイリング優先というなら見た目重視という意味ですが、デザイン優先ということは「考える事」を優先しているわけで、まったく悪い事ではありません。
デザインをしないという事は「考えること」をしないという事です。
子供の頃のなぞなぞに、大阪城を建てたのは誰だ?、というのがありました。
豊臣秀吉と答えると、ハズレ、答えは大工さん、なんていうタワイモナイなぞなぞです。
でも、スポンサーは秀吉ですから秀吉が建てたと言ってもいいかもしれません。
もしくは、大阪城の構想は「難攻不落の要塞」であって外堀さえ埋められなければ実際その通りであったのですから、その構想を考えた城攻め名人「秀吉の作品」というのが妥当な答えかもしれません。
バルセロナにあるサグラダ・ファミリアはどうでしょう。あまりにも有名なガウディの作品です。
いまだ完成していないですし、様々な建築家と大勢の職人が彼の死後を引き継いでいまだ建築中です。
サグラダ・ファミリアは一見奇妙な形をしています。しかし、ガウディは紐と錘をつかった巨大な模型をつくって構造的にもっとも安定する形態としてあの形を構想したのです。
サグラダ・ファミリアを逆さにして天井に据え付けてみたと想像してください。天井から下がった錘のついた紐で構成された模型から発想された事がわかります。
あの形は奇抜さを狙ったものではなく、合理的な構造から構想されたものなのです。
http://goo.gl/1ach9 (画像検索結果)
彼を引き継いだ職人も建築家も、その構想を変えないで建築してきました。ですから、これは間違いなくガウディの構想による「作品」と言ってもいいでしょう。
しかしながら、サグラダ・ファミリアは数多くの芸術家による「作品」でも構成されています。彼らはサグラダ・ファミリアのその部分に関しては自分の作品であると言うでしょうし、それは妥当な話です。
また、サグラダ・ファミリアは建築当初からバルセロナ市民やカトリック教会が募る寄付で資金を賄ってきました。バルセロナ市民や教会から見れば胸を張って、これは我々の作品であると言う事もできると思います。
いや、歴史的な建築物や公共建築と個人住宅は一緒には論じられないよ、と言うのはわかります。
確かに心情的にはその通りですが合理的には違いはありません。
私は何人かの施主さんから、「あなたの作品」といえる家にして下さい、と言われた経験があります。その意味が決して、マスターペーションに使ってくれ、なんて意味じゃないのは当然です。
設計者にしても施工側の職人にしても毎日これをやっているわけで、毎日のルーティンワークのように家を建てることはできます。そして、そのほうが楽です。
しかし、本当にデザインして(考えて)、その構想を実現しようとして造ろうとすると、設計者も職人も非常にややこしい事をしなくてはならない事態が多々生じます。そりゃ面倒ですし、ルーティンワークでできる事ではありません。
なんでわざわざそんな事すんのかと言うと、ルーティンワークに喜びはないからです。また、デザイン(考える事)には、施主さんというもっとも近い隣人の喜ぶ顔も含まれているからです。人を喜ばせたり、感謝されたりって事は仕事での一番のエネルギーです。
だからこそ、設計者も職人も現場監督も、それぞれの立場と意味合いで「作品づくり」に関わっていると考えることが重要なのです。
そして施主さんも、一緒に考え・やりたい事を伝え、施工においては職人さんの仕事をおりに触れ見に来て感嘆し、何よりローンを抱え、それはやっぱり作品づくりに関わっているわけです。
ですから、建築家も職人も施主さんもそれぞれが「作品」に関わって、これは自分が創ったものだと胸を張れる事がいい家づくりになるんだと思います。
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